拝啓、月が怖くて

2025年06月02日 12:41



これは、僕の弟が最後に書いた手紙にまつわる話です。
少し長くなるかもしれませんが、できるだけ順を追って話してみようと思います。
今も、あの夜の光が、脳裏から離れません。

弟はまだ高校生でした。
真面目で、どこか影のあるような、静かな子でした。
小さな地方都市で、両親と三人で暮らしていたんです。

僕はというと、春から東京で働き始めて、家を出たばかりでした。
引っ越しの朝、駅まで送ってくれた弟が、ちょっと寂しそうに「気をつけて」と笑ったのを、今でもよく覚えています。
それから一ヶ月ほど経った頃、実家から僕宛に一通の手紙が届きました。
封筒の裏には、弟の名前。中には便箋が一枚。

拝啓、兄さん。
そちらの暮らしには、もう慣れましたか?
東京の空は狭いと聞きますが、そちらからも、月は見えますか?

そう始まる文面に、最初は微笑ましさを感じていました。
けれど、読み進めるにつれて、胸がざわついていくのを止められませんでした。

こちらは、よく見えます。
それが、困るんです。

満月のまま、何日も形が変わらない。
雲がかかっても、霞んでも、月だけははっきりと浮かんでいる。
まるで、こちらを見ているように。

カーテンを閉めても、朝になると開いている。
紐で結んでも外れてしまう。
そして、毎朝――あの濁った光で目が覚めるんです。

弟は、月に“見られている”と感じているようでした。
日を追うごとに、手紙の内容はおかしくなっていきます。

月には、目がある。
無数の目が、こちらを見下ろしている。
髪を撫でられる感覚がある。額をなぞられ、喉を――冷たい手が。

今朝、鏡を見たら、自分の目がひとつ、月のように光っていました。

拝啓、兄さん。

これが、最後の手紙です。
今夜も、月が見ています。

そして、私はもう――
そちらには行けそうにありません。

敬具

読み終えた瞬間、僕はすぐに実家へ電話をかけました。
けれど、何度呼び出しても、誰も出ません。

胸騒ぎがして、翌朝の始発で実家に向かいました。
夜遅くに到着し、慌てて鍵を開けると、家の中は不自然なほど静まり返っていて――まるで誰もいないようでした。

弟の部屋に入ると、カーテンが風もないのに揺れていて。
その向こうには、不自然に大きく、濁ったような月が浮かんでいました。
光が強すぎて、目を逸らせない。
見下ろされているような、いや、“監視されている”ような、そんな感覚。

あまりの圧に耐えきれず、僕はカーテンを引きちぎるようにして閉めました。
後日、両親は近所の人に連れられて避難していたことが分かりました。
母が言うには、弟の様子が日に日におかしくなっていったそうです。
夜中に月を見ながら何かを囁いたり、鏡の前でじっと動かなくなったり。
そしてある晩――
家じゅうのカーテンを、すべて引きちぎってまわった、と。

恐ろしくなった母は、父とともに一時的に家を離れたのだと。
でも、その隙に――弟だけが、消えていました。

部屋には荷物も残されたまま、失踪の痕跡すらなかったのに。
机の上に置かれていたのは、あの手紙と、一枚の鏡だけ。

鏡を覗いたその瞬間――
そこに映る自分の目のひとつが、
ほんの一瞬、月のように光った気がしたんです。
それ以来、僕は夜、空を見ないようにしています。
カーテンは二重にし、窓には目張りをしています。
それでも時折、背中に光を感じることがあります。
振り返りたくない。けれど、わかっているんです。

拝啓――月が怖くて、眠れません。

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