かけてしまったその日から

2025年06月03日 10:00

これは、去年の冬に私が体験した、静かにじわじわと続いている話です。
普段はあまりこういう場所に書き込むタイプじゃないのですが、自分の中で整理をつけたくて、思い切って投稿させてもらいます。

私は東京で一人暮らしをしている大学生です。
その年の秋、母方の伯父が、突然亡くなりました。
心不全だったそうです。
おじは無口な人でしたが、子どもの頃から何かと気にかけてくれ、私にとっては“心の距離がちょうどいい”大人でした。

実は、高校生の頃に一度、伯父の使っていた眼鏡を見て「それ、かっこいいですね」と言ったことがあります。
おじは少し照れたように笑って「そうか」とだけ返したのを、今でもはっきり覚えています。

四十九日を過ぎた頃、おじの奥さん、つまり叔母から連絡がありました。

「あなたが気に入ってたって聞いたの。形見として、もしよければ――」

そうして私の手に渡ったのが、黒ぶちの、少しレトロな眼鏡でした。
レンズは黄ばんでいて古かったのですが、私は視力が悪く、ちょうど家用の眼鏡が壊れていたので、レンズだけ変えて使い始めることにしたんです。

これが、すべての始まりでした。

最初は、ほんの違和感でした。
部屋で本を読んでいるとき、視界の端に“何か”がちらっと動いたような気がしたのです。
黒い影のようなもの。人の形にも見えるような、そうでもないような。

眼鏡を外すと、影は見えなくなりました。

疲れているのかと思いました。寝不足やスマホの見過ぎかもしれないと、自分に言い聞かせました。

でも、それは日が経つにつれ、徐々に“見えるように”なっていったのです。

家の隅、玄関の影、風呂場の前。
私が眼鏡をかけているときに限って、“そこに何かがいる”ような気配を感じるのです。

ある日、思い切って眼鏡をかけたまま大学へ行ってみました。
日中の街。電車の中。キャンパスの廊下――
どこにも、あちこちに、“影”はいました。

交差点の信号の下でしゃがんでいる黒い人型。
誰も乗っていないエレベーターの奥に立つ影。
廊下の奥、誰もいない部屋をのぞき込んでいる顔のない何か。

誰も気にしていない。
私にしか見えていないのです。

怖いという感情と同時に、それを“観察してみたい”という妙な気持ちもありました。
帰宅すると、見た影をスケッチブックに描くようになりました。
姿はどれも曖昧で、形を持たないようでいて、どこか人間らしい輪郭をしていました。

けれど、そのうちのひとつ――部屋の隅にいた影が、明らかにこちらに“干渉”してくるようになったのです。

玄関マットの上に足跡のような跡が残っていたり、
スケッチブックのページが勝手にめくられていたり。

ある夜、私は眼鏡をかけたまま、うっかり寝落ちしてしまいました。

深夜。目を覚ましたとき、身体がまったく動きませんでした。
視界の端に、黒い影が――私のベッドの足元から、這うように近づいてくるのが見えました。

顔の横にぴたりと寄り添ったそのとき、耳に生ぬるい息がかかり、その影は、確かにこう囁いたのです。

「見ていたのは、お前だけじゃないぞ」

怖くなって、私は友人のTに相談しました。
Tは信じてくれて、自分のバイト先の先輩――見える人――Aさんを紹介してくれました。

Aさんは静かに、でもはっきりと言いました。

「その眼鏡、きっとおじさんの“視る力”が染み込んでたのよ。
あなたは見えるわけじゃないけど、引き寄せる体質なの。
今、あなたは“見えてしまった”から、向こうもあなたを“見ていい相手”として認識しちゃってる」

Aさんは簡単なお祓いをしてくれました。
それで干渉は少し弱まるかもしれないけれど、完全に切り離すのは難しい、と。

最後にこう言われました。

「今後は、その眼鏡、できるだけかけないこと。
見ないこと。それが、一番の距離の取り方よ」
今、その眼鏡は部屋の奥の引き出しにしまってあります。
きれいに拭いて、眼鏡ケースに入れて、布をかけて。
もう二度とかけないと、そう決めて。

……けれど。

夜になると、ときどき思うのです。
“もう一度だけ、かけてみようか”と。

怖かったはずなのに、なぜか惹かれてしまう。
引き出しの中で、それは今も、静かにこちらを見ているような気がします。

たまに、どうしようもなく、
私は、あの眼鏡を――また、かけたくなるのです。

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