二度落ちた夜

2025年06月08日 10:00


これは、僕が高校に通っている今も時々思い出す、ある晩の出来事です。

僕の家から学校までは、電車で三駅ほど。
最寄り駅から学校までの道は、オフィス街の裏手を抜けていくようなルートで、日中は人通りも多く、特に怖いと感じたことはありませんでした。

ただ、その道の途中に、一つだけ妙に浮いているような建物があります。
他のビルが新しく建て直されるなかで、そこだけは昭和のまま時間が止まったような、灰色の高層ビル。
階段の柵には赤茶けた錆が浮いていて、近くに立つだけで古びたコンクリートのにおいが鼻を刺すような、そんな場所です。

そのビルには、ずっと前から噂がありました。
「夜になると、スーツの男が落ちてくる」
「でも、立ち上がって、また上に戻っていく」
――そんな話。

他の人にはただの噂かもしれないけど、僕には、そうじゃありませんでした。
僕は、小さい頃からいわゆる“見える体質”で、そういうのが見えてしまう。
このビルも、例外ではなかったんです。

初めて見たのは、1年の夏の終わりでした。
夕暮れ時、部活帰りにそのビルの前を通りかかったとき、最上階の非常階段の柵に、誰かが立っているのが見えました。
スーツ姿の中年の男で、背筋を伸ばしたまま、ただ、じっと下を見下ろしています。

次の瞬間、その男は何の前触れもなく、すっと前に身体を傾けて――
落ちました。

音は思ったより鈍く、乾いた「ドサッ」という衝撃音だけが、あたりに響きました。
慌てて駆け寄ろうとして足を止めたのは、男が――ゆっくりと立ち上がったからです。

関節の折れた人形を無理に起こすような、不自然な動きでした。
服は汚れてもいません。
血も流れていません。
ただ、無言で、ギィ…ギィ…と非常階段を一段ずつ昇っていきます。
また、上へ。

僕はそのまま固まって、しばらく動けませんでした。
でも翌日、同じ場所を通ったら、、、
昨日とまったく同じように、また男が落ちてきて、また昇っていったのです。
その次の日も、その次の週も。

いつしか僕は、その繰り返しに慣れてしまっていました。
見なければいい。
ただ、それだけの話。
なるべく夜は避ける。
もし遅くなっても、目を合わせず、足早に通り過ぎる。

……そんな日々が続いていた、ある夜のことでした。

その日は、部活の終わりにトラブルがあって、遅くまで学校に残っていました。
時刻はもう21時を過ぎていて、街灯の光が長く路面に伸びるころです。
僕はイヤホンを耳に突っ込み、なるべく視界に入れないようにしながら、例のビルの前を通り過ぎようとしていました。

でも――
やっぱり、というか、また落ちてきたんです。
見上げてすぐ、スーツの男がふわりと身を投げ、ドサッと地面に落ちる音が響いた。

僕は顔をしかめて、小さく舌打ちしました。
「またか……」
正直、うんざりしていました。
でも、いつものことだとやり過ごそうとして、数歩進んだ、そのとき。

背後で、もう一度、ドサッと音がしたんです。

……え?

思わず足を止め、振り返る。

歩道の端に、もう一つ、何かが落ちていました。
ぐちゃっ、と崩れた姿勢。スカート。長い髪。
それは――女性でした。

倒れた女性の傍らには、さっきのスーツの男が立っていました。
さっきまで無表情だったその顔に、満足げな笑みが浮かんでいたんです。

口角が、不自然に吊り上がっています。
目だけが笑っていない、あの“作り笑い”のまま、ゆっくりと男はまた階段を昇っていきました。

「……は?」

頭が追いつきませんでした。
でも、これは“いつものループ”じゃない。
これは、“今”起こったことだ――そう思った瞬間、全身に血が逆流したような感覚に襲われました。

震える手でスマホを取り出し、救急車を呼びました。
近くにいた人にも声をかけ、警察も呼びました。
何を話したのか、どう説明したのか、正直よく覚えていません。

ただ、事情聴取の後、ようやく解放されて帰り道、
ぐったりとした頭で、ふと思ったんです。

あの女の人――
彼女は、あの男に“誘われた”んじゃないか?

“何度も飛び降りては昇る”という地獄のループに、
彼女も引きずり込まれたのではないか――

その時、頭の中で再生されたのは、男の、あの笑みでした。

歯を見せて笑う、スーツの男。
誰にも気づかれずに、同じことを繰り返しているようで、
……実は、ちゃんと見ていたのかもしれない。

僕のことも。

それ以来、僕は決して、あのビルの前を通らなくなりました。
夜道で視線を感じても、決して振り返らないようにしています。

あの夜の、「二度目の音」を
もう二度と、聞きたくないからです。

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