これは、僕が新卒で入社した会社で体験した話です。
少し長くなるかもしれませんが、できるだけ順を追って話してみます。
いまだに“あれ”が何だったのか、正確には分かりません。
けれど、今もあの蝋燭の揺らめきと、背後で閉まったドアの音を、時々夢に見ます。
その年の春、僕は地方から上京し、都内の小さな広告制作会社に就職しました。
入社早々、仕事のスピードと情報量の多さに打ちのめされました。
先輩方は忙しそうで、質問ひとつするのにも気を遣う。
同期は明るく、器用に仕事をこなしていくのに、僕だけが取り残されているようでした。
「新人のうちは、そんなもんだよ」
そう声をかけてくれたのが、田島さんという先輩でした。
五歳上のその人は、社内でも落ち着いた存在で、派手さはないけれど、よく気がつく人でした。
僕が書いた資料をさりげなく添削してくれたり、メールの文面を一緒に考えてくれたり。
“目立たない優しさ”をたくさん受け取った覚えがあります。
ある金曜の夜、納品が終わった帰り道に、田島さんがふとこう言いました。
「少し寄っていかない?変なとこじゃないからさ」
連れて行かれたのは、駅のすぐそばにある古びた雑居ビルでした。
その一階の角、ガラス張りの扉の横に、小さな看板が掲げられていたのを覚えています。
《 灯光 》――それだけ。
店名とも宗教名ともつかないその二文字が、今でも脳裏に焼きついています。
田島さんは鍵もなく扉を開けて、するりと中へ入りました。
僕も後に続いて中に入ると、途端に、空気が変わったような気がしました。
静か、というよりも「音が抜けている」ような空間でした。
冷たい白い壁と、石のように硬い床。
空間の中心には腰ほどの高さの白い台があり、そこに等間隔で蝋燭が並んでいました。
ロウソクの炎はどれもゆらゆらと静かで、まるで時間が止まっているように感じました。
「ここ、“誰かのために祈る”場所なんだ」
田島さんは、受付らしき台にある白紙の札に名前を何か書き、蝋燭に火を灯しました。
「自分のために祈っちゃいけないんだよ。他人の幸せを願うことで、自分の心が軽くなる。
そういう教えなんだってさ」
正直、そのときは奇妙だとは思いませんでした。
むしろ、“自分のことばかりで頭がいっぱいだった”僕にとって、どこか救いのある行為に思えたのです。
それから何度か、田島さんに誘われて、僕は“灯光”に通いました。
職場の先輩の健康を祈ったこともあります。
久しぶりに連絡をくれた地元の友人に「いいことがありますように」と灯したことも。
白紙に名前と簡単な祈りの言葉を記し、台の箱に納め、蝋燭に火を灯す――
それだけの、簡単な作業でした。
不思議と、祈った帰り道は心が落ち着いて、仕事のミスも減ってきたように思いました。
でも、それと引き換えに“異変”が起こり始めたんです。
同期のAが、突然階段から落ちて骨折しました。
母が倒れ、しばらく入院することになったと連絡が来ました。
ある友人は、理由も分からないまま仕事を辞め、実家に戻ったとSNSに書き込んでいました。
もちろん、すべてが“偶然”だったのかもしれません。
けれど、その“誰もが不運に見舞われた相手”は、僕が“灯光”で祈った人ばかりだったんです。
だんだんと怖くなり、あの場所に行くことを避けるようになりました。
でも、田島さんは変わらず優しく、何も気づいていないような顔をしていました。
ある日、意を決して田島さんに聞きました。
「……あの場所、本当に“祈りの場所”なんですか?」
田島さんは笑いました。
「もちろん。でもね、何かを願うには代償がいる。
神さまだって、タダ働きはしてくれないから」
「じゃあ……あれって、誰かの不幸と引き換えに、ってことですか?」
「うん。でも大丈夫。
君が誰かを傷つけたわけじゃない。
僕が、君のために、たくさん祈っただけだから」
その瞬間、背中が冷たくなりました。
僕は、自分のために祈ったことなんてなかった。
でも、もし田島さんが――僕のために、祈り続けていたとしたら?
「ねえ、あの奥の部屋、最近入れるようになったんだ。
一度、見てくるといい」
そう言い残して、田島さんはそのまま帰っていきました。
翌朝、会社にも姿を見せませんでした。
夜、どうしても気になって、僕はひとりで“灯光”へ向かいました。
あのドアは、前と変わらず開いていました。
中には誰もおらず、蝋燭の炎だけが、静かに揺れていました。
奥の部屋――いつも鍵がかかっていた扉が、確かに開いていました。
その中は、どこか神殿のような、墓のような雰囲気でした。
ひときわ高い台の上に、ガラスに囲われた蝋燭たちが整然と並んでおり、そのすべてに、名前が添えられていました。
僕の名前でした。
「この子が、救われますように」
「この子に、未来がありますように」
「この子が、代わりに――」
「この子が、わたしの、身代わりに」
蝋燭の数は、数えきれませんでした。
そして、最後の一本――その蝋燭に、今まさに、火が灯されたのです。
誰が火をつけたのか、僕には見えませんでした。
ただ、背後で“ドアの閉まる音”がしたのです。
それだけで、帰れない気がしました。
それから、“灯光”の場所には何度行っても辿り着けなくなりました。
同じビルのはずなのに、いつも違う店が入っており、道順も変わっています。
誰に聞いても「そんな名前の施設は知らない」と言われます。
田島さんも、あの日以降会社に戻ることはありませんでした。
退職届だけが、総務に届いていたそうです。
今も、蝋燭の火がどこかで揺れている気がしてなりません。
誰かが、僕のために祈っているのだとしたら――
どうか、もうやめてほしい。
お願いです。
祈るなら、自分のためにしてください。