"ミサキちゃん"って誰?

2025年06月15日 10:00



これは、私がまだ二人の子どもを育てていた頃の話です。
当時、長男は五歳、長女は三歳。私は夫と子供たちの四人で、都内の賃貸マンションに住んでいました。
駅からも近く、日当たりもよくて、特にいわくもない、どこにでもあるようなマンションです。
けれど、今でも思い出すと、背中に冷たいものが這い上がってくるのです。



最初は、子どもたちがよく部屋で遊ぶようになったな、という程度でした。
ふたりで楽しそうに笑いながら、ぬいぐるみを並べたり、ままごとをしたり。

でも、ある日、長女の口からこんな名前が出てきました。

「今日もね、ミサキちゃんが遊びに来たよ」

ミサキちゃん? そんな子、近所にいたかしら……?
不思議に思いながら聞き返すと、娘は「このおうちにいる子だよ」と平然と答えたのです。

そこから、奇妙なことが立て続けに起き始めました。
子どもたちの遊ぶ声に混じって、もう一人分の話し声が聞こえる気がする。
ぬいぐるみの位置が毎晩変わっている。
誰もいないはずの寝室から、夜中に足音がする。
息子に「ミサキちゃんってどんな子?」と聞いたとき、こんな返事が返ってきました。

「髪の毛が濡れててね、いつも下向いてるよ。……怒ってるときは、にこにこしてる」

――ぞっとしました。



ある夜、私が眠っていると、誰かが耳元で囁いたんです。

「ママには、内緒だよ」

目を開けても、誰もいませんでした。
ただ、その言葉だけが、耳の奥に焼き付いていました。

それでも、夫は「疲れてるんだよ」と笑うばかり。
でも私の中では、もう限界でした。

決定的だったのは、娘が突然階段から落ちかけたこと。
幸い大事には至りませんでしたが、後日ぽつりと、「ミサキちゃんが、こっちおいでって言ったの」と。

私はその日の夜、引っ越しを決めました。
夫には半ば呆れられましたが、何かが壊れてしまう前に、ここを出なくてはいけないと、本能が告げていたんです。



新しい家に引っ越してから、あの奇妙な現象はぴたりと止みました。
子どもたちも以前のように明るく元気に過ごすようになり、あの名前を口にすることもなくなりました。

でも、ずっと心に引っかかっていた私は、子どもたちが高校生になった頃、思い切って聞いてみたんです。

「ねえ、昔“ミサキちゃん”って子と遊んでたこと、覚えてる?」

二人とも、ぽかんとした顔で「誰それ?」と。
まるで最初から、そんな子いなかったかのように。

……でも、私は忘れられません。
最後に引っ越す直前の晩、娘がうわごとのように呟いていた言葉を。

「ミサキちゃん、ママのこと大嫌いだって……
ママ、目、ついてるのに見えないからだって……」



最近、またときどき、夜中に耳をすます癖が戻ってきました。
眠っている子どもたちの部屋から、かすかな声が聞こえる気がするのです。

いーち、にーい、さーん、ばーつ。
ミサキちゃんの番。

足音が……三つ、廊下を通り過ぎていく。

やめて。もう来ないで。
私は、あの声を知っている――

「ママには、内緒だよ」

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