これは、僕が小学生の夏休みに体験した出来事です。
その日から僕は、釣り竿を握ることができなくなりました。
祖父は海沿いの小さな町に住んでいて、僕は毎年夏になるとそこに遊びに行っていました。
引退した元漁師の祖父は、釣りがとても上手で、僕にもいろんなことを教えてくれました。
だけど、ひとつだけ、いつも「ここでは釣るな」と言う場所がありました。
港の奥にある古い防波堤。
地元の人も近づかないその一角に、祖父は決して僕を連れて行こうとはしませんでした。
「釣れないし、足場も悪い。危ないからな」
そう言っていたけれど、どこか腫れ物に触れるような言い方でした。
ある日、祖父が用事で外出していた隙に、僕は一人で釣りに出かけました。
誰にも邪魔されずに釣れる場所を探して、防波堤の奥へと足を運びました。
今思えば、あそこに行こうと思ったこと自体、何かに呼ばれていたのかもしれません。
人の気配がまったくないその場所で、僕は竿を垂らしました。
しばらくして、浮きがスッと沈みました。
「きた!」と興奮しながら巻き始めたとたん、竿にずっしりとした重みが伝わってきました。
リールを巻く手に、ぬるぬるとした感触が伝わります。
海面が波打ち、ゆらゆらと何かが浮かび上がってきて――
僕の目の前に現れたのは、顔でした。
目と鼻と口がはっきりわかるほど、近くまで浮かんできて。
皮膚はふやけて白く、ところどころ剥がれ落ちていました。
何より怖かったのは、その顔は“僕のほうを見て笑っていた”ように見えたんです。
叫び声が出るより先に、僕は後ろに倒れて、竿を放り投げて逃げ出しました。
その日は結局、祖父の家に帰ってしばらく一言も話せなかったと思います。
夜になって、震える声でようやく出来事を話すと、
祖父は黙って目を閉じ、長いため息をつきました。
「……やっぱり、覚えとらんのか」
祖父が話してくれたのは、僕が5歳のときのこと。
その年も夏に遊びに来て、まだ言葉もたどたどしい僕を連れて、ほんの一度だけ、港の奥へ行ったことがあったそうです。
そのとき、僕が竿を垂らしてすぐ、「なにか釣れた!」と叫んで引き上げたのは――
人の“手”だった。
祖父はすぐにそれを払い落として、僕を抱えてその場を離れたと言いました。
でも僕は、小さすぎてその記憶が残っていませんでした。
「……あそこには、昔から噂があるんだ」
祖父はぽつりとつぶやきました。
釣り針に引っかかって“人の一部”を釣ってしまった者は、いずれ“続きを釣る”ことになる――
港の古い漁師たちのあいだで、そう囁かれていた場所だそうです。
「手の次は、顔か……。今度は、どこまで引き上げさせる気なんだろうな」
そう言って、祖父は僕の肩にそっと手を置きました。
あれ以来、僕は港に行っていません。
釣り竿にも、二度と触れていません。