小学6年の春休みのことだ。
その年、母が出産を控えており、体の弱い僕を連れて、母の実家に一時的に引っ越すことになった。
もともとアトピーと喘息があり、季節の変わり目は体調を崩しがちだったので、療養も兼ねてということだった。
父は仕事が忙しく、家事や育児は母に任せるしかない状態。
妊娠中の母一人では無理があるということで、春休みのうちに、僕だけ少し早めに母の実家に預けられることになった。
小学校6年という中途半端な時期に引っ越すことになったのには、そういう理由があったのだ。
その日、母方の祖父が車で僕を迎えに来てくれた。
2時間ほどかけて山間の村へと向かう。
景色はだんだん田舎っぽくなり、コンビニもなくなって、やがてぽつぽつと古い家が見えてくる。
「Kちゃん、ここが小学校だよ」
祖父が指さしたのは、年季の入った木造の建物だった。
今まで通っていた街の学校とは比べものにならないくらい古びていて、少しだけ驚いた。
(……なんか、出そう)
でも、怖いというよりはただの感想で、それ以上の興味は湧いてこなかった。
僕はそのまま車窓に顔を向け、ぼんやりと外を眺めていた。
その時だ。
ふと視界の端に、妙に場違いな建物が飛び込んできた。
――洋館だ。
木造の民家が続く通りの中に、ひときわ目立つ洋風の建物。
確かに古びてはいるけれど、手入れが行き届いており、全体がどこか耽美な雰囲気に包まれていた。
ちょうど信号で車が止まり、僕の視線はそのまま玄関先に吸い寄せられた。
そこにいたのは、白くてふわふわした毛並みの犬と、それを連れた一人の女性。
彼女はすっと家の奥――庭のほうへ歩いていく。
年は母よりも少し上だろうか?
髪はきれいにまとめられており、姿勢も、所作も、どこか儚げで美しい人だった。
ふと目が合った……ような気がした。
しかし、彼女はそのまま静かに犬と一緒に庭へと消えていったのだった。
不思議なことに、その瞬間だけ時間がゆっくり流れたように感じた。
周りの音が遠くなり、僕の中で何かが引っかかるような、そんな感覚だけが残った。
信号が青に変わり、車が走り出してもしばらく、僕はその洋館の方向を見つめたままだった。
春休みが明け、僕は村の小学校に通い始めた。
祖父母の家でゆっくり過ごしていたおかげか、少しずつ体調も回復し、外に出るのも前ほど苦ではなくなっていた。
学校までは歩いて1時間近くかかるので、しばらくの間は祖父が車で送迎してくれることになった。
田舎の学校に馴染めるか不安もあった。
しかし、僕の心配をよそに、クラスの子たちは思いのほかフレンドリーだった。
“よそ者”を避けるような空気は全くなく、むしろ珍しさからか、話しかけてくれる子が多かった。
その中でも特に仲良くなったのが、Rだった。
毎日楽しい日々を過ごしていたが、僕には少し残念なことがあった。
放課後、みんなが校庭で遊んだり、笑いながら帰っていく時間―― 僕はいつも一足先に祖父の車に乗り、帰らなくてはいけなことだ。
体調のことを考えれば仕方がない。
解ってはいるのだけど、正直、やはり少し寂しかった。
そんなある日、Rがぽつんとこんなことを言った。
「今度から途中までやけど、一緒に帰らん?」
僕は戸惑った。
もちろん嬉しい。
でも、それ以上に不安の方が大きかった。 身体のことは自分が一番よく知っている。
「無理やよ。うち遠いし、多分許されんって……」
それでもRは引かなかった。
「だーかーらっ!途中までやって!」
言いながら、嬉しそうに説明してくれる。 僕の家まではさすがに無理、しかしちょうど道の真ん中くらいにあるスーパーまでなら、許してもらえるんじゃないか。
喘息には適度な運動も大事だと聞いたし、一度家族に聞いてみろ、とそういう事だった。
その提案に、僕の中でも希望が湧いてきた。
(それなら、もしかしたら――)
僕はその日、「なんとしても説得するぞ」と意気込んで帰宅した。
しかし、その決意は肩透かしに終わった。 母も祖父母も、思いのほかあっさりと了承してくれたのだ。
「だいぶ体調も良くなってきたし、そのくらいなら良いんじゃない?」
「Rって言ったら、あそこの子やね。あれはしっかりしとるし、安心じゃろ」
「したら、近所の方にもご挨拶に行ってた方がいいわねぇ」
トントン拍子に話が進み、翌週の土曜日、祖父に連れられて近所へ挨拶回りに出かけることになった。
Rの家、途中にあるお店、古くからの顔見知りの家―― その道沿いの家々を一軒ずつまわって、僕の体調のことと、発作が起きたときの対処法をお願いして回った。
夕方、ほとんどの家をまわり終えたころ、祖父が「よし、それじゃあ帰ろうか」と言った。
でも僕は、どうしても気になり、聞いてしまった。
「あそこの家には、挨拶行かんの?」
車窓から見えた、その家―― そう、春休みのあの日、信号待ちで目を奪われた、あの洋館のことだった。
祖父は一瞬、何かを飲み込むようにして、僕の言葉を遮るように言った。
「あそこはいかん。あまり関わっちゃいかんよ」
その言葉は、それまで穏やかだった祖父の口調とはまるで違っていた。
強く、低く、どこか張りつめたような声だった。
僕は思わず口を閉じた。
なぜなのか、どうしてなのか、そう聞き返したい気持ちもあったのだけど―― 祖父のその表情に、何か“本当に聞いてはいけないもの”があると直感した。
その日の帰り道、車の窓から見た洋館は、いつもより静かに、そして深く、夕日に沈んでいた。
ついにRと一緒に下校できる日々が始まった。
Rはそろばんを習っており、月曜日と木曜日は一緒に帰れない。
なので、火・水・金曜日が僕にとっての“お楽しみの日”となった。
車だと10数分の距離、その半分でも、歩くと景色はまるで違って見える。
学校の近くの道にはツツジが植えられており、Rが蜜の吸い方を教えてくれた。
僕は何本もむしり、甘い味を楽しみながら歩いた。
道ばたの田んぼにはレンゲソウが咲き乱れ、風に揺れる様子はまるで絵のようだった。
女の子たちが集まって花輪を作って遊んでいるのを横目に見ながら、僕らは通り過ぎる。
川辺ではしゃいでいる子たちに混ぜてもらい、足を水につけたりして軽く遊んでいた。
そんなとき、誰かがどこからかカエルを見つけてきて、突然目の前に突き出してきた。
思わず声をあげ後ずさると、周りからケタケタと笑われた。
恥ずかしくて居たたまれなくなり、Rに「帰ろう」と急かした。
しかし、そんな出来事さえも楽しい時間だった。
街では味わえない景色、出来なかった遊び。
それら全てが、僕の目にはキラキラとして映るのだった。
スーパーの少し手前、静かに佇むあの洋館。
春にはまだ蕾だった紫陽花が、ぽつり、ぽつりとピンク色の花を咲かせ始めていた。
ずっと気になっていたその建物について、ついにRに聞いてみることにした。
「ねぇ、R。この洋館ってさ――」
建物を眺めながら言いかけたその時だった。
Rは振り向きもせずに、低く短く言った。
「見るな。早く行くぞ!」
「えっ?なんで?」
きょとんとして立ち止まった僕の手を、Rはグッと掴んでそのまま歩き出す。
急かすように、僕を引っ張る。
振り向いた瞬間だった。
洋館の二階、カーテンの隙間。
そこから、誰かがこちらを覗いていた気がした。
髪の長い、白っぽい服の女の人――
しかし、瞬きをした次の瞬間には、もう誰もいなかった。
ただ、カーテンだけが微かに揺れていた。
部屋の中だ、風があったわけではないだろうに。
そのまま何も言えず、スーパーに着き祖父の車を待つ。
Rは隣で一緒にいてくれたが、最後まで一言も喋らなかった。
次の日学校に行くと、Rはいつも通りだった。
昨日の洋館のことがあったので、昼休みにそっと切り出してみた。
「なぁ、R。昨日のことやけど……」
声をかけた瞬間、Rは明らかに嫌そうな顔をする。
その表情に少し怯んだが、好奇心には勝てず――僕は話を続けた。
「あの洋館って、なんかあるん?」
Rが言葉に詰まり、黙り込んだままになっていると、タイミング悪く(いや、よく言えばタイミング良く)クラスの女子が近づいてきた。
「紫陽花の洋館がどうしたん?」
声をかけてきたのは、噂好きで有名なSだった。
僕が「いや、じいちゃんが関わるなって言うし、Rも変だし、なんかあるんかな?って……」と、言い終わる前に、Sは得意げに話し出す。
「あの洋館のお庭の紫陽花の下にはね、死体が埋まっとるんよ!」
僕は一瞬、言葉を失った。
ぽかんとしている僕のことは気にせず、Sは話を続ける。
――その女性は昔から村では有名な人だった。
未婚のまま子どもを産み育てていたけれど、その子は小学生の頃に事故で亡くなったらしい。
なのに、葬儀らしいものがあった形跡がない。
その日から女性は様子がおかしくなり、村の人たちは腫れ物に触るように彼女を避けるようになった。
数年後、そんな過去を知らない少年が、あの女性と仲良くなった。
彼は「あの人は優しくて普通の、ただの綺麗な人だ」と言い、止める大人たちの言葉など聞かず、洋館に通い続けていた。
やがて、少年は行方不明になった。
そして―― 庭の紫陽花は、女性が子どもを亡くしてから赤く咲くようになった。
きっと、行方不明の少年も殺されて、その子どもと一緒に紫陽花の下で眠っているのでは、と村では噂されているのだとか。
僕は半信半疑だった。
「……なんで死体が埋まっとったら赤色になるんよ?」
そう聞くと、Sはしたり顔で言った。
「知らんと? 紫陽花って土の“PH”ってやつで色が変わるんよ!」
そう言いながら、自分の席に戻って机をゴソゴソ。
やがて理科の教科書を持ってきて、あるページを指さし、僕に見せてきた。
そこには、青色リトマス紙が酸性の水溶液で赤くなる、という実験の図が載っていた。
「これこれ! きっと死体が酸性なんよ!」
まるで理科の授業みたいに、興奮気味に話してくるSを、僕はただぼんやりと見ていた。
ふとRの方に目をやると、呆れたような表情で一言だけつぶやいた。
「……そういうことなんよ。だから関わるなって言ったやろ?」
その言葉を最後に、チャイムが鳴った。
僕たちはそれぞれ席に戻り、午後の授業の準備を始めた。
さっきまでの話がまるでなかったかのように、日常は何事もなく流れ続けていた。
Rとの帰り道にもすっかり慣れてきた頃、僕はRがそろばんに通う日――月曜と木曜には、一人でスーパーまで歩いて帰るようになっていた。
道にも慣れ、迷うこともなくなっていたある日。
いつも通り、一人で帰っていたときのことだった。
あの洋館の前を通りかかったとき――急に、息が詰まるような感覚に襲われた。
咳が止まらない。
胸が痛い。
空気が吸えない。
苦しい。
苦しい。
(どうしよう、発作だ……)
パニックになりかけたそのとき、視界の隅に洋館の扉が開くのが見えた。
女性が、あのときの洋館の女性が、ゆっくりと歩いて出てきた。
朦朧とする意識の中で、僕の口元に何かが当てられる。
「大きく息を吸ってね、いくよ?」
そう優しく言われ、背中をさすられながら、吸入器から“シューッ”と流れ込む薬を深く深く吸い込んだ。
何度か繰り返すうちに、少しずつ咳が治まり、胸の苦しさがやわらいでいく。
――落ち着いた僕に、女性は言った。
「……少し休んでいく?」
祖父の顔が一瞬頭をよぎったが、このまま帰るのは不安だった。
スーパーはすぐそこだし、少しだけなら――そう思い、僕はうなずいた。
通されたのは、庭に面した静かな部屋だった。
椅子に腰を下ろし待っていると、女性が温かいお茶を持ってきてくれた。
「喘息なら、冷たいものより温かい方がいいでしょ?」
そう言われ、おずおずとカップに口をつける。
甘くて、優しい味がした。
やがて女性は、窓を開けて庭に出た。
サァーッと、涼やかな気持ちの良い風が吹き込んできた。
「紫陽花に水をあげてくるから、落ち着いたら教えてね」
そう言い放ち、水撒きを始める女性。
その後ろ姿を眺めながら、僕はお茶をすする。
女性の周囲に広がる庭――
中型の白くてふわふわした犬がじゃれまわり、水撒きの水が陽の光を反射して小さな虹を作っていた。
庭に咲き始めた紫陽花は、五分咲きくらい。
鮮やかな濃いピンクの花が、まるで絵画の中の一場面みたいに、きらきらと輝いていた。
10分ほど経った頃、僕はようやく声をかけた。
「あの、ありがとうございました。もう大丈夫です」
女性は僕の言葉に、ふわっと微笑んで、
「良かった。お家は近いの?帰れる?」
そう聞いた。
不意の笑顔に、恐怖とはまた別の感情でドキリとする。
本当に綺麗な人だったのだ。
「そこのスーパーまで、迎えが来るので……」
モジモジと僕がそう答えると、女性は「それなら安心ね」と言って、玄関まで見送ってくれた。
「またおいでね」
その一言が、妙に耳に残っていた。
――やっぱり、いい人なのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕は少し急ぎ足でスーパーに向かった。
祖父を心配させないように。
スーパーに着くと、祖父がすでに車で待っていた。
急いで乗り込み、少しだけ発作があったことを伝えると、祖父はひどく心配そうな顔をした。
「本当にもう、大丈夫なんか?」
何度も確認され、僕は申し訳ない気持ちになりながらも、
「大丈夫。ちゃんと休んだから」
そう言って、家路に着いた。
……洋館でのことは、言えなかった。
心配をかけたくなかったし、なんとなく――話すべきじゃない気がしたのだった。