あの日の発作以来、Rがそろばんに行く月曜と木曜、僕は自然と洋館に寄るようになっていた。
あの女性――Mさんというらしい――は、いつ行っても変わらず、優しく出迎えてくれた。
例の、甘くて優しい味のするお茶も、必ず出してくれる。
白くてふわふわな犬の名前は、アマチャ。 「紫陽花の品種と同じでね。庭の花の下で昼寝するのが好きだから、そう名付けたの」 Mさんは、そう嬉しそうに話してくれた。
アマチャはとても人懐っこく、僕に甘えてくるけれど、無理に遊びに誘ってくることはなかった。
空気を読む、賢い子だった。
アトピーと喘息のせいで小さい頃から動物とあまり触れ合えなかった僕にとって、アマチャの存在はまるで夢みたいだった。
それに、あの甘いお茶――“甘茶”も、庭の紫陽花の葉から作っていると聞き、僕は驚いた。
甘いお茶、優しい女性、静かな犬―― 気付けば、洋館に立ち寄るのが毎週の楽しみになっていた。
滞在時間はいつも15分ほど。
甘茶をすする間、アマチャを撫でながら、Mさんとちょっとした会話を交わす。
何気ない時間。
しかし、そのどれもが僕にとっては大切だった。
……そのことは、祖父にもRにも言えないのだった。
言わないといけないとは思った。
でも、どうしても言えなかった。
もしかしたら自分でもどこかで“これはよくないことだ”と気付いていたのかもしれない。
それでも、僕にとってこの時間は――もう手放せないかけがえのないものになっていた。
ある日、祖父に「学校の帰りに少し遊んでから帰りたい」とお願いしてみた。
学校が終わるのは夕方4時過ぎ。
日も長くなってきたことだし、スーパーに5時半までに着くなら――という条件で、OKが出た。
僕は、すっかり舞い上がっていた。
それからは、Rやクラスメイトたちと遊ぶ時間も出来、僕の日々は一層きらきらと輝いていた。
学校の校庭でドッジボールをしたり、川で水遊びをしたり、草むらで虫を追いかけたり。
しかしその一方で、洋館での滞在時間も、少しずつ、伸びていたのだった。
季節は梅雨へと移り変わり、しとしとと雨の降る毎日が続いていた。
Mさんは、あまり多くを語る人ではなかった。
部屋のあちこちに子供がいた形跡が残っており、噂は常に頭にチラついていた。
しかし、僕もあれこれ聞くことはなかった。
ただ、静かに並んで座り、甘茶をすすりながら、雨に濡れる紫陽花を眺める。
時折アマチャが寄ってきて、膝に顔を乗せる。
僕はその柔らかい毛並みに触れながら、ただただ、心地よい時間に身を委ねていた。
あの静けさは、まるで何もかもが止まったようだった。
外の世界がどれだけ濡れていようと、あの庭には、変わらぬ安らぎがあった。
それが、どれほど“異常”なことだったのか―― 当時の僕には、まだ分かっていなかった。
7月の上旬。
梅雨もそろそろ明けるかという頃。
それでも雨はまだ止まず、蒸し暑くてジメジメとした日が続いていた。
その日も僕は、いつものように洋館に寄っていた。
部屋の中は冷房もつけていないのに、ひんやりしていて、外の湿り気も感じない。
どこか現実味のない、静かな空気が流れていた。
Mさんがいつものように甘茶を出してくれる。
一口、口に含んだ瞬間――(あれ?)と思った。
いつもより、甘い。 ……いや、濃い。
しかし、その時はそれほど気にしなかった。
少し味が違うなと思いながらも、Mさんの隣で並んで座り、剪定されて花が終わった庭の紫陽花をぼんやり眺めていた。
寄ってきたアマチャをいつものように優しく撫でる。
するとMさんが、静かにおかわりを注いでくれた。
カップを持ち上げ、もう一口。
――濃い。
明らかにおかしい。
口の中にまとわりつくような、重たい甘さ。
喉の奥が焼けるような、そんな違和感。
その時だった。
いつもは穏やかだったアマチャが、突然飛びかかってきた。
驚いて手を離したカップが、床に落ちて砕ける。
アマチャにもお茶がかかり、毛がびしょ濡れになった。
けれど、アマチャは気にする様子もなく、僕に向かって大きく吠えていた。
見たこともないほどの形相。
牙を剥き、目を見開いて――まるで何かを訴えるように、何かを止めようとするように。
怖くてたまらなかった。
あのアマチャが、こんなにも激しく吠えるなんて。
アマチャの動きで部屋の埃が舞い、それを吸い込んだ途端、咳が止まらなくなった。
(……苦しい)
喉が腫れ、気管が閉じていくのがわかる。
目の前が霞んでいく。
でも、それ以上に僕をパニックに陥れたのは―― Mさんだった。
彼女は何もせず、ただ、僕を見ていた。
吸入器を探すでもなく、割れたカップを拾うでもなく、アマチャを止めるでもなく。
冷たく、感情のない視線で、ただジーッと、僕を見下ろしていた。
咳が止まらず、呼吸ができず、あたまが混乱し―― 込み上げてきた吐き気に、堪らず嘔吐した。
そこで、僕の記憶は途切れている。
気がつくと、白い天井が見えた。
病院のベッドだった。
腕には点滴。
ベッドの横には、祖父母が心配そうに覗き込んでいた。
「起きた! 起きたぞ!」
祖父の声に、祖母が医者を呼びに行く。
ゆっくりと記憶を辿る中、戻ってきた医者が簡単な問診を始めた。
診断は――甘茶による中毒症状。
薄く淹れたものなら問題ないが、濃すぎると、特に子どもには危険らしい。
その日は一日入院。
明日には退院できるとのことで、祖父母は何か言いたげな様子のまま、帰っていった。
翌日。
すっかり体調が戻った僕は、祖父の車で帰宅していた。
静かな車内で、祖父がぽつりと呟いた。
「……やから、関わるなと言ったじゃろ」
そして続けた。
「あの女は……気が触れとる。何をするかわからん」
少し間を置いて、こう言った。
「Rに感謝するんじゃぞ」
どういうことかと尋ねると、祖父はゆっくり話してくれた。
あの日、Rはそろばんの帰りに、洋館の裏手の道を通っていたという。
雨が降る中、ふと庭に立つMさんの姿が目に入った。
普段なら無視して通り過ぎる。
しかし、その日は――犬の鳴き声があまりに激しかった。
思わず目をやると、そこには―― Mさんに抱えられ、ぐったりした僕がいた。
口から吐瀉物を垂れ流し、ヒューヒューと浅く苦しそうに呼吸をしていたという。
Rは傘を放り投げて、叫んだ。
「なにやっとるんや!!」
怒鳴りながら庭に飛び込み、Mさんに掴みかかって僕を奪い返した。
Mさんは特に抵抗もせず、静かにその場を離れたという。
Rは僕を担いで、スーパーまで走った。
そこで祖父と合流し、そのまま病院に運ばれた――というわけだった。
Rの両親が迎えに来るまで、彼はずっと一緒にいてくれたらしい。
僕は「ごめんなさい」と、小さくつぶやくことしかできなかった。
家に戻ると、母と父が玄関まで飛び出してきて、何も言わずに僕を抱きしめた。
さすがの事態に父も駆けつけてくれたらしい。
触れる母のお腹から、ぽんぽんと小さな感触が伝わってきた。
お腹の中の子も、僕のことを心配してくれていたのかな、なんて考え、 少しだけ背筋が伸びる思いだった...
部屋に戻ろうとしたその時、チャイムが鳴った。
ドアを開けると、Rが立っていた。
「退院したって聞いたから……」
そんな言葉よりも早く、**パァン!**という衝撃が頬に走った。
平手打ちだった。
驚いて顔を上げると、Rが涙を流していた。
その顔を見た瞬間、僕もぶわっと涙があふれてきた...
2人でしばらく、言葉もなく泣いた。
泣き止んだRは、祖父に送られて帰っていった。
そのときは、何も言わなかった。
でも、僕は知っている。
Rが来なければ、僕はきっと、あの庭に埋まっていた。
翌日は土曜日で学校はなかったけれど、僕は一日中落ち着かなかった。
テレビも、漫画も頭に入ってこない。
アマチャは……大丈夫だろうか? そう思いはしても、確認する勇気はなかった。
日曜日も同じように、ただただ時間をやり過ごした。
そして月曜日。
登校すると、やっぱりというか、僕の話でもちきりだった。
教室に入るとすぐにクラスメイトが集まってくる。
Sが真っ先に飛びついてきて、開口一番こう言った。
「大丈夫やった?紫陽花の話、聞いた?」
たじろぎながら「いや、何も……」と答えると、Sは勢いを増して詰め寄ってきた。
「なにか怪しいところあったんやろ?教えてよ!」
しつこく食い下がるSを、Rがそっと僕から引き離してくれる。
Sはまだ何か言いたそうだったが、Rの目に気おされて渋々席に戻っていった。
チャイムが鳴り朝礼が始まって、何事もなかったかのように授業が進んでいく。
机に向かいながら、僕はただひたすら“忘れよう”としていた。
あの日のことも、甘茶の甘さも、あの冷たい目も……。
何もかも、なかったことにしてしまいたかった。
でも――アマチャのことだけは、どうしても忘れられなかった。
あれ以来、洋館の前を通っても、アマチャの姿は見えなかった。
名前を呼んではいない。
呼べるはずもなかった。
知りたくても、確かめたくても、僕には――怖くて出来なかった。
月日が過ぎ、例のリトマス紙の実験をした日のこと。
Sがまた、目を輝かせて先生に訊ねた。
「先生、もし紫陽花の下に死体が埋まってたら、こんなふうに赤くなるんですか?」
先生は一瞬眉をひそめた後、真面目に答えた。
「いや。死体は確かに酸性だけど、紫陽花は酸性の土壌では“青”い花を咲かせるぞ」
Sは納得いかないという顔をしてブツブツ言っている。
僕は思った、な~んだと。
結局噂は噂なんやと。
でもだとしたら、行方不明の少年の話はなんだったのだろうか?
赤く咲き始めた紫陽花は?
新たな疑問が浮かび上がる一方で、ただ、あの女性が異常だったのは確かで...
もう絶対に関わらないようにしよう、と再び固く決意した。
時が経ち、母は無事に妹を出産した。
僕は小学校を卒業し、中学生になった。
体力も戻り、自転車での通学が許されるようになった頃、再び梅雨が訪れた。
ある日、自転車を漕ぎながらふと洋館の方に目をやると、咲き乱れた紫陽花の中に―― ひときわ目を引く、青い紫陽花があった。
庭の隅に見える、濃く、深く、澄んだ青。
その株は、まさに――アマチャがいつも昼寝をしていたあの場所だった。
体の奥が、ぎゅうっと締め付けられるように苦しくなった。
実験をした理科の授業での教師の一言を思い出す。
「死体は確かに酸性だけど、紫陽花は酸性の土壌では青色の花を咲かせるぞ」
瞬間、Kは悟った。
アマチャはあの下に埋まっている。
根拠はない、だが確信があった。
きっと人間の僕は中毒症状を起こすだけの毒でも、動物のアマチャには致死量だったのだろう。
僕はすぐに自転車の向きを変え、別の道を進んだ。
それ以降、遠回りになるがそれでも、洋館の前を通ることはやめた。
大人になった今でも、梅雨が来るたびに、あの雨と、甘いお茶と、ふわふわの毛の感触を思い出す。
あの子は、きっと僕を守ろうとしてくれていた。
命を懸けて。
あの時は調べても分からなかったけれど、大人になって改めて調べてみると、どうやら“日本スピッツ”という犬種だったらしい。
今、僕の家には――小さな日本スピッツがいる。
偶然、ペットショップで見かけた白い子犬は、どこかアマチャにそっくりで……その場を離れることが出来なかった。
名前は、同じく“アマチャ”。
今度こそ、最後まで一緒にいようと思う。
あの時、飼い主に歯向かってでも守ってくれた命に、きちんと向き合って生きていこうと思った。
あの庭の紫陽花は、今年もきっと、静かに咲いている。 赤く。 ……そして、青く。