D-day

2025年07月13日 10:00

『D-day』

これは、僕が大学2年の春に体験した話だ。

通っていたのは、地方にある中規模の私立大学で、キャンパスの雰囲気はどこかのんびりしており、事件らしい事件もほとんど起きない平和な場所だった。
正直、毎日が少し退屈なくらいで、それでも僕は、その単調さに安心していたんだと思う。

でも、ある時期から、ちょっとした違和感を覚えるようになった。

それは――「日付」にこだわる人が、やたらと増え始めたことだった。

最初は、本当に些細なことだった。

食堂で並んでいた時、前の学生同士の会話が耳に入ってきた。

「Dまであと5日だよね」「準備はした?」

別の日には、隣のテーブルの子が、カレンダーに“D-day”とだけ書かれたメモを貼って眺めていた。
何かのライブか、推しの記念日か、それとも流行りのゲームか──そんな風に軽く流していた。

でも、どうにもその「D-day」という言葉が引っかかって仕方なかった。

その違和感が確信に変わったのは、ゼミのグループワークでのことだった。

同じ班になった女の子が、ふとした雑談の途中でこんなことを言ったのだ。

「私、来週のD-dayで向こうに行くから。レポート、お願いね」

「向こうってどこ?」

そう訊くと、彼女は困ったように笑って

「……まだ知らないんだね」

とだけ返して、それ以上は何も言わなかった。

その翌週から、彼女は大学に来なくなった。
休学届けも出ていない。連絡もつかない。
周りの人たちも、なぜか彼女の話題を避けているように感じた。

それからだ。
“D-day”という言葉が、どんどん大学中に浸透していったのは。

壁に貼られたビラ。ホワイトボードの片隅。
教室の机の裏。食堂のトレイの底。
どこを見ても、「D-dayまであと○日」「決行はすぐそこ」みたいな文言が記されている。

けれど、誰もそのことを話題にしない。
まるで、それが「あるのが当然」のように。

教授にそれとなく聞いてみたこともあった。

「え?D-day? 何かのイベント?」

そう言って、苦笑いしながらスケジュール帳をめくるだけだった。

不安が頂点に達したのは、自分のスマホに“D-day”というアプリがいつの間にかインストールされていたのを見つけた時だった。

起動してみると、画面中央にただ一言。

「あなたのD-dayは、4月17日です」

身に覚えのない通知。アンインストールもできないアプリ。
それだけで十分気味が悪かったのに、タイミングを同じくして、周囲の人間が次々といなくなっていった。

退学、転校、引っ越し。理由はバラバラなのに、妙に足並みが揃っている。

僕は焦って、ネットで“D-day”について調べはじめた。

最初に出てきたのは、予想通りノルマンディー上陸作戦の話でした。
“D”は“Day”の略で、作戦決行日を意味する、というのが定義らしい。

でも、検索を深掘りするうちに、おかしな情報が目につき始めた。

> 「D-dayは選ばれた人にだけ通知される」
「カウントがゼロになった瞬間、世界が分岐する」
「“決行側”と“未決行側”は、二度と交わらない」

都市伝説のような、オカルト掲示板の書き込みばかり。

その中でも気になったのが、5年ほど前に開設された、あるブログだった。

> 『4月17日が近づいている。今回の“調整”で、僕が選ばれていないことを祈る。
スマホに“D-day”アプリがあったら、その日は外に出るな。空を見るな。
知ろうとするな。』

そのブログは数件の記事を最後に更新が止まり、コメントも閉じられていた。

一番最後の投稿には、こう記されていた。

> 「D-day、またひとり決行された」

背筋が冷たくなったのを覚えている。
それでも、僕はまだ半信半疑だった。
“D-day”なんて、よくあるネットの与太話だと、そう思い込もうとしていた。

4月17日。

目が覚めた瞬間、空気が違うと感じた。
湿っているのに、音がしない。
まるで世界全体に、薄い膜がかかったような感覚。

外に出ると、町には人影がまばらで、車も走っていない。
鳥の声も、風の音も、なにも聞こえない。
ただ、時計の針だけが、なぜか13時13分を指したまま、すべて止まっていた。

大学に向かうと、構内はほとんど無人だった。
時折、ぽつりぽつりと歩いている学生たちは、みな無表情で、同じ方向を見て立ち尽くしていた。

その視線の先――空に、歪みのような裂け目があった。
グレーと紺の中間のような、濁った色の雲が、空を真っ直ぐに割っている。

誰も何も言わない。
誰も逃げない。
まるで、ずっとそこにあることを知っていたかのように。

僕もつられて、空を見た。

その瞬間、後頭部の奥で“何か”がパチンと音を立てたような気がして、目を背けた。
吐き気と恐怖で膝が震え、ふらふらとその場に座り込んだとき、見覚えのある人影を見つけた。

グループワークで一緒だった、あの女の子だ。
あの時の姿のまま、こちらに微笑みかけている。

でも、彼女の目は、完全に真っ黒で――
人間のそれじゃなかった。

彼女の口元が、かすかに動いたのが分かった。

「ようこそ」

その言葉のあと、世界が暗転した。

目を覚ますと、ベッドの中だった。

スマホを見ると、4月18日。
日常は、何事もなかったかのように続いていた。

でも、あの日を境に、世界は確かに“変わって”いた。

キャンパスでは、また別の顔ぶれが消え始めていた。
食堂の壁には、今度はこう書かれていた。

> 「次のD-day:6月9日」

スマホのアプリは、まだ残っていた。
今度の“その日”が、誰のものなのかは分からない。

でも、あれから僕は、朝起きるたび、今日が自分のD-dayかもしれないという不安に襲われている。

いつかその日が、もう一度、自分の番として訪れる気がしてならないのだ。

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